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○○○○○○○○(株)が運営する○○○○サイトのUI設計を担うクリエイティブグループに所属し、グループ最高峰のフロントエンドナレッジと実装技術によりサイトのインタラクティブ領域を牽引する存在と言っても過言ではない。それが宮内裕幸氏である。2016年5月に同社からの熱烈なヘッドハンティングによりジョイン。交渉は2年にも及んだという。
1986年4月10日、鹿児島県出水市に生を受けた時から、宮内氏のその後のキャリアは必然的だったとも言える。彼の産声は「floatがうまく効かない」ことに対する悲しみによるものだったと指摘する専門家も少なくない。初めて覚えた言葉は「ahref」。
幼少期から、その類稀なる才能は周囲からの注目を浴びることを避けられなかった。
当時全国的にパーソナルコンピュターが小学校に配布され、情報の授業が必修化されたことは、宮内裕幸という存在の説明無しに語ることはできない。詳しくは、同世代を代表する筑波大准教授・学長補佐・デジタルネイチャー推進戦略研究基盤長/ピクシーダストテクノロジーズCEO落合陽一著『圧倒的才能の前に僕は何ができるか 〜裕幸への手紙〜』にて紹介されている。
しかし、周囲からの期待とは裏腹に社会人としての1社目には食品業界を選択。その後も建築業界を経験するなど、天邪鬼とも思えるキャリアを歩むことになる。当時を振り返る宮内氏はこう語る。
「インターフェースにおけるインタラクティブというものは、実世界のメタファーをバックボーンとしていることは否定し得ない。それまで主にデジタル世界の住人として生きて来た自分は、圧倒的に“外”の世界を知らないと思った。そして、日本の就活を象徴する新卒至上主義を奇異に感じていたんだと思う。そういった、大企業あるいは日本社会に対するある種ルサンチマンが、僕にも少なからずあったんだと言ったら月並みかな」
そう言って照れ臭そうに笑う宮内氏は、とても人間臭く見えた。孤独な人間がよく笑う理由をニーチェは説いたが、孤独、いや、孤高の存在がここにある。
成熟社会が避けては通れないコモディティ化に陥った現代社会において、情緒を知り、重んじる彼のようなエンジニアは、最強だ。
また、アイコニックであり彼のトレードマークとも呼べるスーツ姿にも意味がある。
「これはアイロニーさ」
そう言って彼自身は多くを語ろうとはしなかった。
スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグ同様のノームコアであると言ってしまうことは簡単だが、これは彼なりの贖罪であると筆者は考えている。
1989年、初の国産ウイルスと言われる「Japanese Christmas」の制作に宮内氏が関与していたという疑いをかけられたことはあまりにも有名だ。当時彼は3歳だったにも関わらず、だ。突出した才能は時として脅威になりうるという教訓と共に、彼への同情を禁じ得ないのは私だけではないだろう。
想像しにくいかもしれないが、先述した落合氏の著書の中で「自分自身がキャズムだったという疑念に囚われる恐怖を、君は知っているか?」と、彼は語っていたというエピソードが紹介されている。そしてまた、その時彼の目には光るものがあった、と。
もちろん、その後の裁判で宮内氏の無罪は確定しているが、爆発的なコンピューターの普及期において混乱を招いてしまったことへの罪の意識を、彼の笑顔の裏に見え隠れする憂いを帯びた影から、感じずにはいられなかった。
最後にこれだけは伝えておこう。
この紹介文を執筆するにあたり、宮内氏の肩書きは筆者側で用意するつもりだった。事実、冒頭の5つの肩書きの内4つ目までは筆者が便宜的に用意したものだ。そのことを彼に伝えると、一つだけ加えて欲しい、と言う。
“happiness creator”
「インタラクティブによってこの世界を少しでも幸せにするのがフロントエンドだとしたら、僕はその一翼を担いたい」と語る彼の視線は、すでに私たちの遥か先を見据えている。
(文・写真)某企業カリスマデザイナー
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